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モノクロフィルムの現像とプリント
周遊券が大好きの巻
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■写真について

軽便鉄道や私鉄でも地方の小さな鉄道が好きで、模型化の資料として撮りためた写真です。だから走行写真が少ないのはそのためです。床下とか台車とかも多く撮っています。鉄道ファンの中にもいろいろなタイプがありますが、3重連が無くなるから、特別列車が走るからと、三脚を立てて撮影するようなタイプでは私はありません。だからそういう人は「なんだコレは」と思われるかもしれません。車両よりも鉄道や、それを取り巻いて生活している人たち、その地方でなければ無い雰囲気が好きなんです。そんなわけで「!?なもの」も入れたかったのです。撮りためた写真中から、インターネットなので、まずカラー写真を中心にピックアップしました。

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■退色について

一人暮らしのときは、まずまず整理はしてあったのですが、結婚して子供ができると、写真も図面などアチコチに散在するようになりました。今回ひっぱり出してみると退色がひどいものもありました。スキャナで取り込み、色調整をしました。これはデジタル処理のいいところです。デイタイプとタングステンのフィルムを間違えて使ったものも、デジタル処理で結構見ることのできる色になりました。

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■文章について

旅行のできごとをメモするクセがあってだいたいは書いていたのですが、整理が悪くて、行った年月日など記憶で書いている部分もあります。そんなわけでものすごく詳しい部分と、あっさりした部分があります。また、東武博物館オープンのために、パソコン通信のTO〜Bネットが開設され、そこに書いた文章も少しあります。

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■アップしてみて

鉄道写真を撮っている人の大多数の夢は、自分の写真集を出版することと、よく言います。印刷すれば多大な費用と時間がかかりますが、インターネットだと一人でもこれだけのことが、パソコンがあればできるのですから、いい世の中になったものです。それも世界中に。ある意味では恐ろしくもありますが。

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■お願い

文章の間違い、表記の違いなど、気が付いた箇所がありましたら、遠慮なくご指摘ください。私は模型の資料として撮影していたので、実車には弱いのと、記憶で書いている部分もありますので。ご指摘いただければ早めに修正しますので。
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■使用しているカメラ

それほどカメラに対してのこだわりはもっていません。当初は家にあったオリンパスペンです。当時家庭用のベストセラーになった機種でずっと2眼レフを使っていた父親が、家族の写真を簡単に撮れるようにと買って来たものです。ハーフサイズ(35ミリサイズの半分)なので24枚撮フィルムだと倍の48枚撮れるので経済的ではあるのですが逆に画質は落ちます。加えて固定焦点の自動露出でストロボなしだったので、少し暗いとブレてしまいました。こんなカメラですが未だに手元にあります。たくさん撮れるのでメモ代わりには最適なので。

次に手にしたのはニコマート。ニコンFの廉価版。レンズは同じものを使いボディを安くしたといった感じ。高校を卒業して少したって、固定焦点ではないカメラが必要になったので父親に買ってもらったものです。初めペンタックスの予定だったのですが、知っている人から「ニコンがいいっ」と言われて父親が変えたものです。これもまだ手元にあってときどき子供の撮影に使っています。

勤めるようになると給料が入るあちこちの軽便鉄道に出掛けるようになりました。画質のいい、フィルムサイズの大きなカメラが欲しくなり、プロのカメラマンが新しいカメラを買ったから安く売るというので、マミヤ・フレックスを中古で手に入れました。2眼レフながら、ワイドと望遠の交換レンズ付き。露出計がないのでニコンがTTLなので、これで測りマミヤで撮るようにしていました。

マミヤはフィルムも大きくて良かったのですが重い上に不経済。35ミリカメラに統一して交換レンズを揃えたかったので、マミヤを欲しがっていた友人に売って中古の黒いボディのニコンマートを買いました。保証無しの、かなり安いものでしたが現在まで故障なしです。ついでに中古でワイドと望遠の交換レンズも購入、これで同じカメラが2台あるので、交換レンズはどちらでも使えるようになりました。1台はカラーで、もう1台はモノクロと使い分けしました。

結婚して子供ができるとカミサンが「あなたの持っているカメラは素人の私には写せないっ」と言われて当時出たばかりのコダックのディスクフィルムのコンパクトカメラを買いました。これはプラスティックレンズでフィルムも小さく、ディスクフィルムも普及しませんでした。薄くて小さくて良かったのですが、画質が悪いのと撮れる枚数が少なかったのが致命的でした。不経済なので。旅行でも少し使いましたが画質が……。

「もっと奇麗に撮れて、普通のカメラが欲しいっ」とカミサンに言われて「じゃぁ、コレ」と購入したのがキャノンのオートボーイ。これはカミサンも大満足。当時のベストセラーカメラになりました。売れるだけのことはあっていいカメラです。これは今でも使ってます。メモがわりには最適。

!?なものなど一部にデジタルカメラのオリンパスC−1400Lを使っています。一眼レフに近いスタイルと性能でデジタルカメラでは息の長かった機種で、会社で買ったので慣れるために使ってみたものです。フィルム代も現像料もいらないので。使ってわかったことは、画質はますまず。ただしスマートメディアへ書き込みに5秒近くかかり、銀塩カメラのように連続撮影は不向きでした。あれっ、シャッターが切れないという感じ。すぐ画像を確認できるのはいいですね。見て失敗したら取り直しがききますから。逆に、撮影して現像に出して、上がってくるまでワクワクして、上がってからオッ、こんな撮れていたのかっという感動はなくなりました。

今、主に使っているのはサンヨーのデジタルカメラDSC-X110。オリンパスC−1400Lは画素が細かくていいのですが、大きすぎて気軽にポケットに入れて撮るという使い方はできません。自分で買って使うなら画素はそれほどでなくても、記録時間が短くて小さなものがいいと思ってメモを取るようにパッパッと撮れて、ポケットに入れられて動画も撮れるデジタルカメラとしてサンヨーのDSC-X110を以前から眼を付けていたところ、マイクロドライブ対応の新機種が出るため、安くなっていたので思い切って買いました。製品についてくる8MBのスマートメディアでは、動画を多めに撮るとすぐ無くなってしまうので32MBを、ニッケル水素電池も初めの2本では1日がギリギリなので4本を買い足しました。

ズーム機がほしくなり、光学10倍ズームで小さくて軽量、値段もこれまでより安いオリンパス・キャメディアC-700ウルトラズームを購入しました。スマートメディアへの書き込みの速さもまずまず。

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■モノクロフィルムの現像とプリント

はじめの頃はカラーはマミヤ・フレックス中心で、モノクロはニコマートでというように使い分けていました。モノクロは自分で現像、プリントをしていました。フィルムも長巻きの缶入りを買って自分で巻いたこともあります。安いからです。現像、プリントを自分でしたのは、現像液や印画紙、温度を変えることで、いろいろな効果が出せたためです。店に依頼すると画一的なので。

暗室なんてものはあるわけはないので、夜になるのを待って、長巻のフィルムを巻くのと、現像タンクのリールに巻くは押入で、プリントは夜の自然の暗室で行っていました。自然の暗室は冬は夜が長くていいのですが、夏は4時頃になると明るくなってしまって、印画紙が真っ黒になったこともありました。現像液を一定に保つもの大変で、夏はぐんぐん液温が上がるので氷を買ってきて冷やし(冷蔵庫なんてなかったので)、冬はぐんぐん液温が下がるので周りをお湯で温めました。

現像タンクもブロニー1本と35ミリ2本共用のもので、初めは現像ムラで失敗しましたが、次第にうまくなって、フィルム面を背中合わせにしてブローニーなら2本、35ミリなら4本を一気に現像できるまでになりました。たくさん撮影してくると現像の時間も長くなるので。長巻フィルムを自分で巻くと何枚とれるかわからなくなります。適当に巻くので……。これもヨドバシカメラが店で巻いて安く売り出したのでやらなくなりました。

現像では印画紙用現像液でフィルムを現像したり(ハイコントラストになる)、複写コピー用のフィルムで風景を撮影(粒子が細かいので奇麗だけど露出が微妙で真っ黒か、真っ白)したりしました。図面を焼くための印画紙を使うと細部が表現されないので印刷したような感じになります。写真集もどきを作ったこともありました。プリントするときに温度を意識的に上げると砂目にように写真が出てきました。

お金がないときはカメラ店をまわって、期限切れのカラーフィルムを探したのを楽しい思いでです。カラーが一般的になって、モノクロをあまり撮らなくなってくると、現像液を溶いても、ちょっと使っただけで酸化してしまうので、現像もプリントもしなくなりました。引伸機はしばらく置いてあったのですが、引き取り手もなく、場所をとるということでベランダで雨ざらし、結局廃棄処分になりました。お金はなかったけど(今もないけど)気力と体力と好奇心はあったのですね。

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■周遊券が大好きの巻

TOYTRAINの国内旅行はほとんど国鉄の周遊券、またはミニ周遊券を使って移動しています。当時、給料が入ると1円単位まで全額引き出して、土・日を使って旅行していました。それに代休を加えたりしていました。全額引き出すので、銀行で「たまには1円ぐらい残しておいてくださいよっ」と言われたこともありました。

周遊券があれば行きと帰りの旅費は確保できたことになり、後は宿泊代を考えればいいわけです。土・日に行くのなら旅館や民宿に泊まるのは1泊。行きと帰りは車中泊がほとんどで、宿泊代をケチりました。周遊券だと急行の自由車は別料金は取られません。急行の指定席、特急、寝台に乗ると急行券、特急券、指定券、寝台券が別に必要になるので、寝台なら座席の自由席に乗りました。初めて寝台車に乗ったのは北海道に行ったときです。

金曜日に仕事が終わったら夜行列車の座席で眠り、動きまわって旅館か民宿に泊まり、また動きまわって帰りはまた夜行列車の座席で眠り、朝着いて会社に直行し仕事をするというわけです。

旅館や民宿も、旅行をしていれば、だいだいの相場があるので、値切りました。大きな都市では値切ると「他へ行ってくれ」と断られるので、小さな都市の旅館を狙って泊まりました。後、国民宿舎とユースも会員になっていました。安いので。元は旅館で民宿・国民宿舎になった所に泊まったときがイチバン良い思いをしました。設備が旅館並みで料金が安いからです。長崎に泊まったときはユースも国民宿舎も満室で、値切っても安くならないので、高い旅館に泊まりました。観光都市ですから無理ですね。疲れていて移動するのも辛かったのです。

周遊券で良かったのは「信州周遊券」。信越線・中央線が2箇所、大糸線、飯田線、飯山線とどこからでも出入りできたのです。料金はどこから出入りしても同じですから、いろいろなルートが考えられます。

JRになった今でも周遊券はあるのかなっ。当時は急行がたくさんあって周遊券の使い勝手も良かったけど、今は特急ばかりになってしまったし、新幹線ができてロングラン夜行列車もなくなってしまったし……。

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■影響を受けたもの・参考にしたもの

TOYTRAINの中でもかきましたが写真集の中では、けむりプロの「鉄道賛歌」ですね。これに何らかの形で影響を受けた軽便ファンは結構多いと思います。写真の質、本の装丁、グループでの活動など、これまでにないものでしたから。私は阿里山とダージリン、木曾はこれを見て行きましたから。夏休みに子どものおもちゃを動かして、閉じられていた本棚を見たら、「鉄道賛歌」が2冊ありました。何で2冊あるのだろうとおもいつつページをめくってわかりました。1冊は雨で濡れてページがよれよれになって、ある部分はページが張り付いてしまったので、もう1冊を買ったのでした。

草軽の軽便跡を歩くきっかけになったのは「信州の鉄道物語」。そのなかの“かつての沿線をたどれば”の文章を頼りに歩きました。これは長野県のかつてあった鉄道、現存する鉄道の他に、計画だけで幻に終わった鉄道についても書かれていて、一気に読んでしまいました。

もうひとつ草軽で参考にしたのはJTB発行の月刊「旅」。鉄道専門誌ではないので、最近まで読んだことはありませんでした。昨年暮れに1冊もらって読んだのですが、全国の廃線跡をたどるのならこれを薦めます。TOYTRAINと違って文章や裏付けがシッカリしていて安心感があります。図書館に子どもに付いていってビックリ。月刊誌が結構揃っていて、バックナンバーもあって、最近は近くの図書館で読んでいます。昔読んでいた「子供の科学」もまだ出ているんですね。

JTBから最近出たもので面白いものが、けいてつ協會編著「知られざる鉄道」。これは現存している軽便鉄道・遊覧鉄道・特殊鉄道がすべて掲載されています。私から見るとすべてTOYTRAIN。簡潔にまとめられた文章も読みやすいし、現在動いているTOYTRAINを撮影するならコレを見るべし。最近は鉄道関係の本や雑誌は、もっぱら図書館を利用することにしていたのですが、本屋でざっと見て「面白いっ」と買ってしまいました。ホント、これはお薦め。

花巻の馬面電車の正確な記述の参考にたのは「軽便王国雨宮」。うすい本ですが、あまりスポットの当たることのなかった雨宮製作所と大日本軌道、それに創始者の雨宮敬次郎の人物について書かれた文章が面白い本です。

手軽に読めて価格が安いのが保育社から出ている「カラーブックス」の鉄道シリーズ。路面電車や地方私鉄などいろいろでて、数冊が本棚の隅に積んでありました。

カメラマンで影響を受けたのは「廣田尚敬」さんでしょう。形式写真の延長が多かった鉄道写真にアップやスローシャッター、ブレなどプロカメラマンの眼を持ち込みました。当時の鉄道写真を撮っている人は少なからず廣田さんの影響を受けていると思います。私もそのひとり。山渓カラーブックスは廣田さんの写真と、吉川文夫さんのわかりやすい親しみのある文章で、数冊がありました。

蒸気機関車の本では、臼井茂信著の機「関車の系譜図」は日本の蒸気機関車を系統立て4冊で解説したなかなかのもの。写真のボリュームもすごいですが、文章も簡潔で洒脱。輸入機から国産機、大型から軽便までほとんどを掲載しています。TOYTRAINの蒸気機関車の海外製造メーカーや、以後の移動はこの本がなければわかりまんでした。

模型の雑誌では月刊「鉄道模型趣味」。これは1966年からほとんど欠かさず読んでいます。子供ができてから隠しておいた塩酸に手を出したり、パンタグラフはもぎ取られるはで、しばらく模型からは遠ざかっています。それでも線路を引いてくれというので、ベニヤ半分に線路とポイントとトンネルを作ってやったのですが、ゴジラ気取りですぐに足蹴にされて壊されてしまいました。二人目ができてからは例にもれず“ウサギ小屋”に住んでいるのでレールを引くのは田舎に引っ込まない限り無理そうです。月刊「トレイン」も創刊号からずっと読んでいたのですが、写真中心で私の好みに合わないので途中でやめました。

実車での月刊誌にはピクトリアル、ファン、ジャーナルがありますが、「鉄道ファン」を読むことが多いですね。ただし毎月買うというわけではありません。軽便鉄道が出ている号は立ち読みしてから買いました。軽便鉄道はほとんど姿を消したので、今はほとんど読んでいません。図書館にあることがわかったのでもっぱら最近はコレ。鉄道模型趣味といっしょに子供の本のコーナーにありました。鉄道ファンは「交友社」の発行で、私が気に入っている「鉄道賛歌」も「機関車の系譜図」も交友社。このほかにも数冊がありますが、交友社のエディトリアル・デザインはなかなかいいと思っています。

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■JAZZ・ジャズ・じゃず

私は田舎育ちで、JAZZなるものをほとんど知りませんでした。両親もド演歌好きなもので、家にあるレコードは村田英雄や三橋美智也、畠山みどり。1枚だけ電気屋さんが置いていった、クラシックのダイジェストのレコードがあっただけの環境で育ったのでした。

で、都会に出てきて渋谷に学校があったので、「スウィング」など道玄坂のジャズ喫茶が集まっている所へ連れて行かれたわけです。当時、五木寛之が「風に吹かれて」で文壇にデビューし、スウィングが文中に登場していて、「ここで聴いていたんだぞっ」と「ふぅーん」という感じでした。スウィングの他にもジャズ喫茶はあちこちにあった時代です。そのスウィングも今年仕事で近くを通ったら無くなっていて、昔の面影はありませんでした。

日野晧正の今とはがらっとイメージが異なる、サングラスをかけたクールなジャケットの「ALONE ALONE ALONE」が話題になっていたころです。正直なところ、こんな音楽があるんだとビックリし、同じ曲でもプレーヤーで全く違う曲になる面白さにだんだんJAZZに深入りいて行ったのでした。

初めに勤めた会社に、またJAZZに詳しい先輩がいて、いろいろ教えてもらいました。というわけで、給料は TOYTRAIN と JAZZ に消えていったわけです。

最近はテレビやFMでJAZZを見たり聴いたりできないとはじめに書きましたが、BSでは結構やっているのですね。家にはBSチューナーはないのですが共同アンテナに大家さんがBSチューナーをつないだので、ある日突然NHKの二つのBSチャンネルを見ることができるようになりました。子供が違うのが写っているととうもので初めは海賊電波かと注意していなかったのですが、新聞番組欄と照らし合わせると、ナントBS!!。最近はモントルージャズフェスティバルに出ていた渡辺貞夫を見ることができました。そうそう、NHKでロン・カーターのチェロのバンドもみたからもしかしたらもっとやっているのかも。

私は忙しいこともあって、テレビをあまり見ないほうなので、テレビ欄をほとんど注目していませんので。ただ一時はあちこちでやっていた民放のJAZZ番組は、不況もあっては減ったのは確かみたいですね。

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■レコード

今回子供の踏み台やフリスビーがわりになっていて、ホコリをかぶっていたレコードをスキャニングするために引っぱり出しました。スキャナに乗せようとしたらLPだとはみ出してだめなんですね。CDだと問題はないのですが。そこでデジカメで撮影したわけですが、光量不足と近づいて撮影したら歪んでしまって苦労しました。要するに近づくと広角になるのですね。ファインダーを覗いても広角ではなくて、パソコンにデータを転送しないと確認できませんでした。デジカメのひとつの盲点ですね。銀塩のカメラのレンズだと広角でも仕上がりと同じようにファインダーで確認できるのですが。まあ、液晶が付いているので確認はできるのでしょうが。

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■プレイヤー

子供が人形を乗せて、くるくる回してキャッキャと遊んで針を折られました。換えたら1週間もたたないうちにまた折られて、結局聴くときに針を刺すはめになりました。針の他にもいろいろ壊されて、それでも補修しつつ聴いていましたが面倒になったのかあまり聴かなくなっていきました。今回久しぶりにターンテーブルにレコードを乗せましたが、モーターもいかれたみたいで情けない音になっていました。買い換えかなっ。いまだにCDプレイヤーはありません。パソコンの外付けCDドライブからステレオにつないで聞いています。

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■ホームページのカタチを決めたもの

6月に私のホームページをアップしたわけですが、それより前から「やるやる」と手だけはあげていたわけです。テーマははなっから決まっていて少しずつは作っていたのですが、コレだというカタチはなくモヤモヤした日が続いていたのです。

身分相応にフレームをあちこち入れて、画像中心で動画や音も入れたいと考えて、結局部分はできても全体が手つかずで踏ん切りがつきませんでした。ある日ある会合でリンクさせていただいている「サダナリ・デラックス」の作者さんと話をし、早速ホームページを見て情報量とホームページの方向に感激、私なりのカタチを決めました。だからTOYTRAINがアップできたのも、ここまでこれたのも「サダナリ・デラックス」を見たことにあります。他の鉄道関連のホームページしは少し違った雰囲気にしたかったので。それに加えて、「サダナリ・デラックス」に感謝の意味を込めてTOYTRAINにJAZZも加えたのです。

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■ながでんのおとののおと

ホームページを作ったらやってみたいものに長野電鉄のコンテンツがありました。私は長野生まれで身近にあったことがあります。幼稚園に行く途中に長野電鉄の踏切があり、帰りは必ず電車の来るのを待って、線路に石を置いて割れるのを影から見たりしていたのを覚えています(ごめんなさい……)。高校の3年間は長野電鉄で通っていました。2年間は長野線で、1年間は河東線での通学です。中学生から模型を始めていましたから、自然に車両の形式などを知るようになります。

高校の帰りに長野電鉄の模型を作ろうと車庫に寄り竣工図をいただきました。「全形式を作りますから」と言ったら貨車の図面までいただいて、ホームページに載っている竣工図はこのときいただいてずっと持っていたものです。

高校生時代に1100系と2000系は16番で模型化しました。「全形式を作ります。」と約束した以上作らなければなりません。床下・屋上の写真は撮りためていたので竣工図から16番で一気に作ろうと画策した残骸が「ながでんのおと」のはじめの写真です。全形式全車がサフェーサー塗装までの状態で箱に眠っています。

そのうちに市街地の立体化が計画され、古い車両は東急5000系に置き換わっていきました。模型もNゲージが出てきて、グリーンマックスから長野電鉄の種車になるようなキットが発売されたので、Nゲージで当時活躍していた長野電鉄の車両は完成することができました。

模型とは別に高校時代のこれまた帰りに、権堂駅にあった長野電鉄本社にいきなり寄って、当時運転課長さんだった小林宇一郎さんからいろいろなお話をうかがいました。(急に仕事中に寄ってごめんなさい。今考えると赤面ものですが……。)その時長野電鉄の前身である河東鉄道の蒸機機関車が加悦鉄道に残っていることや、電車形木造客車の話を聞き、加悦に行ったのはそのためです。

私は模型作りのための資料のために写真をとっていたので、実車には弱いところがあります。ただ長野電鉄に関してはいろいろ資料もあり、実車関係の雑誌も長野電鉄が掲載されたときは買っていましたので、これまでとは少し違う、多少マニアックなページにしました。それにしても間違いはあると思いますので、見つけましたらご指摘ください。

サフェーサー塗装状態の16番もいつかは完成させようと思っています。16番ではトラクションモーターでしたっけ、台車に入る小さなモーターも発売されるようになっていますし。後、電車形木造客車も図面と写真さえあれば、いつかは作ってみたいですね。最近は気力がなくなってきたのと、子供が大きくなってきて自由にお金を使えないようになってきたことに加えて、老眼気味になってきたのが心配です。

それにしても昔は「ながでん」とは言ってなかったけど、いつの間にか「ながでん」と言うようになったのですね。長電とは書れてはいましたが。「ちょうでん」と読むと弔電と間違えて縁起が悪いので「ながでん」と表記するようにしたのかもしれませんね。私はずっと長野電鉄とフルで呼ぶ方が好きなんですが。

長野電鉄の社史や雑誌では、特急車は2000系と呼んでいますが、他の車両は130型とか600型とか書かれています。○○系と“ながでんのおと”では書いていますが、これは私がこの方がわかりやすいと思ったからです。まあ、好みですね。

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■ながでんのおとの写真

カメラは古いものはハーフサイズのオリンパスペンですね。家にあったし、当時、2倍撮影できるということで、結構持っている人が多かったと思います。当時は模型のための資料写真でしたので走行写真はほとんどありません。TOYTRAINの掲載には向かない、台車や床下器具の写真はたくさんありました。その中からTOYTRAIN向けの写真を抜き出しました。それと資料写真なのでカラーフィルムはほとんど使っていないのが、今となっては惜しいところです。まあ、当時はモノクロが一般的でカラーの方が珍しかったわけですから、これはしょうがないですね。

普通の鉄道写真を撮る人は、長野電鉄なら「延徳たんぼ」とか「夜間瀬の鉄橋」などが撮影ポイントとしては有名ですが、私はそこで撮影したことはありません。模型を作るときに必ず困るのは“屋根の上”です。横や正面の写真は雑誌や写真集などに出ていますが、“屋根の上”はまず無い。そこで当時、上から撮影できるポイントは長野線の柳原−村山間のバイパスからになります。村山の鉄橋の柳原寄りに線路をオーバークロスしたところがあって、ここが私の撮影ポイント。
半日もいればたいていの車両の“屋根の上”が撮影できます。市街地の立体化の後、列車無線が“屋根の上”に付いたのですがホームなどで下から見上げたのではわからないので、いつものポイントに出かけました。今は跨線橋のある駅も増えてきたので、“屋根の上”の撮影には困らないでしょう。

全体が見える写真で須坂駅が多いのは、通学の行き帰りにカバンにカメラを入れていって撮影したためです。長野から出たあとも帰省のおりに時間が空いたときに時々撮影にでかけました。子供の手を引いて。その時の写真がカラーのものです。

カラーで撮影していなかったことと、もうひとつ残念なことは、旧型車の山ノ内線の写真を撮っておかなかったことです。急勾配の路線のため、アングルによっては線路の向こうから屋根が出て全体が見えるような、ちょうど箱根登山鉄
道のようなカットが撮れと思っていましたから。いつかはと思っているうちに旧型車は廃車・譲渡でなくなってしまいました。

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■私的電脳事情

実は私のホームページは会社のMacで作成、アップしていました。家のマシンは古いPC98FAだったのでホームページを見たり作成する環境ではなかったのです。ずっと使っていた理由は先立つものが無かったから。PC98FAの外付け5インチドライブは98NOTE時代から使っていて古く、2つのドライブが順番に昇天しました。「あなたとトレインとミュージック」のA列車で行こうに書いたX1ターボとX1マニアタイプは、その前に使っていたものです。

PC98FAの内蔵3.5インチドライブも1つが昇天、これは寿命かなっ、次はWindowsかMacかと考えsていたら天からの声、少し前の機種IBMアクティバが養子に来ました。Windows95マシン。カラープリンターをいっしょに連れて。PC98FAからフロッピーでデータを移し終えたとたん残っていた内蔵3.5インチドライブも昇天してしまいました。アクティバが来てすねたのかなぁ。

中学生の息子と小学生の娘の二人のこどもがいますが、私はずっと「勝手に使って良いっ」という主義。あるとき家に帰ったら「動かなくなっちゃった」とメモがありました。詳しく聞くとアクティバのマイクに向かって、二人でだんご3兄妹を歌って(怒鳴ってかな)いたら突然動かなくなったのだそうです。アクティバがあまりの下手さにヘソを曲げたのかも。結局ハードディスクを認識せず、治療を試みたのですがハードディスクは蘇生しませんでした。

サポートに電話すると元の身体に戻るのには7万円くらいかかるとのことで、しばらく放置しておいたのですが、どうも毎日んが面白くない。息子が新マシンの購入の説得の援軍に付いてくれてカミサンからお許しが出ました。息子と二人で新マシンにするなら兎小屋の我が家には液晶モニター付きのNEC NX、と決めていたので早速購入、セルロンですが。

プリンターも「ええいUSBにしてしまえっ」と新しいものに。アクティバといっしょに来たカラープリンターはスキャンヘッドが使えなかったのでした。まあスキャナの変わりですね。我が家に1か月ほどしかいなかったアクティバは、再度養子に行きました。私より治療法をいろいろ知っている方のところへ。新しいハードディスクが入り流行のリナックスマシンとして立派に働いているそうです。

NEC NXの液晶モニターにしたのは、空いたスペースにiMacがいいなっ、と思ってしいたら現実になりました。rev.Aのいちばん初めの機種ですが小学生の娘も大歓迎。「こんなのがほしかったんだぁ〜」。女性は子供でも面食いというか見た目の格好良さに弱いようで……。

プリンターをUSB対応にしておいたのはiMacの受入準備も考えていたのですんなり使えました。ずっと一昔前の電脳生活でしたが一気に最新電脳生活になり、いつかは家でホームページ作成ができるようにと思っていましたが、ようやく環境が揃いました。資料は家にあるので、会社で作成とアップは大変だったのです。

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■軽便異種電脳連結実験

軽便といってもいわゆる「鉄」の軽便ではありません。我が家にやって来たiMacをWindowsのNEC NXと仲良くさせようと計画しました。スタイル抜群のiMacですが、ご存知のようにCD-ROMが付いているだけでフロッピーディスクドライブは標準で付いていません。個人的にはMOを付ければ会社のデータを移せます。しかしUSB対応のMOは数が少ないうえに、高かったのです。個人で使うので1.3GBとか640MBという大容量はいらないので安いものでいいのです。普通のフロッピーも読めるスーパードライブという手もありましたが、会社のデータも使いたいしNXのデータも使いたかったのです。NXに付いているMOとFDがiMacで使えれば安くていいのではと思ったのです。

それで本や雑誌、インターネットで“家庭内LAN”なるものを読んだり見たりしました。“家庭内LAN”って何かカッコ良い言葉ですね。少しだけウチにいたアクティバをLinuxマシンとして再生使しているパワーユーザーに聞いたら2,000円も出せばNXにLANボードが付けられると、LANにするならLinuxっ!!ともいわれました。実はNXには買ってすぐ雑誌の付録のLinuxを入れたのですが、新しいOSが気に入らなかったのかプロンプトは出たのですが、X-Windowは立ち上がりませんでした。ウチに来てすぐ身体を壊されては大変と、元に戻しました。

どうやらISDNにしてルーターとハブを使えば、インターネットもLANも快適に使えることはわかりました。ただ投資がかかりすぎる。ウチはまだアナログ回線でモデムの環境なんで。2台を直接イーサ・クロスケーブルで結べば安くあがりそうです。そう言えば昔、RS-232C端子をクロスケーブルで結んでデータを移動させていたことがあったので、これならなんとかなるかなっ、と決断。ただしそれはものすごく遅かったけど……。

NX用のLANボードとイーサ・クロスケーブルを購入。両方で2,000円でした。ドライバーをインストール、イーサ・クロスケーブルをつないで雑誌に出ていたFTPを利用してものにチャレンジ。Windows用がWar FTP Daemon、Mac用がNet Finder、War FTP Daemonは立ち上がったのですがNet Finderはダメ、起動しない。時計は深夜12時を回っていました。

雑誌に共有市販ソフトが3つ紹介されていて、どれも体験版がホームページからダウンロードできるので、ヤノ電器のWIN MOUNTERにしました。会社のMacのMOが全部ヤノの製品で、最も信頼感と実績があったからです。早速ダウンロード、インターネット上で使用方法やQ&Aも出ていたのでスムーズに共有ができました。やっとこれでNXのMOとFDがiMacで使えるようになりました。ふう、疲れた。後日、オンラインで正式版をクレジットカードで購入、オンラインでの注文は初めてでした。結構いろいろ記入する箇所があった面倒なんですね。認証のことがあるのでしかたがないのでしょう。それにしても画面が重くて時間がかかりました。

WIN MOUNTERについては、ほぼ満足という感じです。エイリアスを作るとMacで共有しているような感覚で使えます。以下、使用感をまとめてみました。
○安い。定価で6,800円。オンライン購入だと2割くらい安い。
○Macにインストールするだけで共有できる。
○TCP/IPを使うので設定がラク。
×プリンターとモデムは共有できない。
×WindowsからはMacのファイルは見えない。
 (ver3.0で可能になりました)
×TCP/IPを使うので、インターネットを一緒に起動することはできない。

で、会社のファィルを移そうとMOに入れてきました。MacでWindowsのMOは読むことができるのでこれを利用しようというものです。だからMOはWindowsフォーマットのものでなければなりません。

はじめは失敗。会社のMacのファイルをまずWindowsフォーマットのMOに保存、家に帰りNXに会社で保存したMOを入れて、iMacからWIN MOUNTERを起動、NXのMOからiMacにファイルをコピーすればこれで終わりと思っていたのですが、ほとんどのMacファイルがテキストファイルと認識されてしまって、起動してくれませんでした。(ver3.0で拡張子で認識可能になりました。)

圧縮すればいいんだと思い次の日に試しました。結果としては圧縮時に拡張子をつけるようにした方がいいようです。それとWindowsとMacの両方に圧縮・解凍ソフトがあるものがトラブルが少ないようです。LHAやZIP、StuffExpanderなどがそれにあたります。ここで役に立ったのはMacGzip、圧縮してあるけどテキストファイルと認識されて解凍できないファイルを、再度MacGzipで圧縮→解凍するとMacのアイコンになりました。この方法でいろいろ移せました。3GB以上空いていたiMacのハードディスクも残り1.7GB。

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